2022年夏。
本を買うときは、すっかり電子書籍や文庫本ばかり選ぶようになっていたけれど、これは今買う本だ、と分かったので連れて帰った。
丁寧な言葉たちがほぐしていく思考の波をたゆたいながら、久しぶりに自分の足で歩く感覚を思い出した。水の中、不安定で寄る辺ない中で、自分の形を知り、その体が頼れる足場を見つけ、あるいは作り、ゆっくり、前だか下だか分からないけれども、とにかく自分で進む感覚。
その感覚を目覚めさせてくれたのは大学時代のゼミの授業で、あの空間で学生同士繰り広げていたのは、まさに「哲学対話」だったと気付いた。
とても居心地のよいこの本の、著者の対談を聞きに行ってきた。その雑感。
書いて振り返れば、著者の永井さんを表したい比喩がしっちゃかめっちゃかである。そして夏っぽさが全開。冬にお話を聞いたなら、まったく趣き異なる比喩になっただろうか。
会場となるカフェで対談開始を待つ間、スタッフと話す全身黒コーデ+シルバーアクセ+主張強めのホワイトベージュのスニーカー、という女性のシャツの形がかわいくって見つめていたら、まさかの著者:永井さんであったので、ひっくり返りそうになった。
最後の質問コーナーで、よほど「本日のお召し物はいずこで…」と聞いてしまいたいくらいステキなシャツだった。
対談が始まってすぐ、百聞は一見にしかずというか、百読は一聞にしかず、と聞き入ってしまったのは、永井さんの語り口だ。
本の中では、なんというか「水の中をもがいていて、たとえ目の前を無数の水信玄餅の群れが遮って境が分からないとしても、どの水信玄餅も傷つけずにかき分けて歩いていく人」という印象を受けていたのが、それをベースに、もっと力強い人だな、と思った。強い芯を持っていて、それを相手に押し付けない聡明さが眩しい。
あと対談相手への相槌がとても軽やかで、爽やかだった。
「91年生まれ!?(固まる)」
→おっ、何を計算してるんですか?
「運動不足だからデモに行くか、というような時代だったんだよ」
→ほがらかな風景ですね
スピーカー2人分のお水が置かれたテーブルに、永井さんの側にだけ瓶のラムネが置かれていた。対談中にカラコロ小さな音をたてながらラムネを飲む姿も、爽やかなお姉さんだった。(同世代だけれども)
「論破」という言葉が聞かれるように、最近は人と言葉を交わす場が、危険な場になってしまってると永井さんは言う。ましてや、言葉で武装して挑む「論破」とは異なって、「対話」とは人の言葉で自分がもろくなる/崩れていく体験だから、余計に恐ろしく感じてしまう、と。
でもそれは、言葉を交わす「人」が悪いのではなく「場」が悪いだけ。相手の話を聞く「対話」の場と、私たちが日々戦っている「社会」という場は、あまりにギャップがありすぎる。私たちにとって強大な力を持つ「社会」で、肌をさらけ出すように「対話」することは難しい。対話できない状態で私たちが「社会」を生きることは流れに翻弄されるようなものだ。
水の中でもがいていると、余裕がなくて他人の問いまで大切にできないのでは?という質問に、永井さんは「始まりは個人の悩み。それを問いという形、つまりみんなが一緒に考えていきたいものに変えることで他者と共有できる」と答える。
水の中では、永井さんの言う「手のひらサイズの哲学(生きていく中で出会う些細な問い)」に出会う。なんとかもがいて生きていくためには、その哲学に立ち止まって、自分の頭で考えることが何より必要だ、と対談は集約されていく。
大学時代に唯一はっきり学んだのは、自分の頭で考えるということは、一人ではできないんだということ。哲学対話を通して「自分の頭で考える」ことを他者と試みていきたいと思っている。
皆が深く頷いた言葉だったと思う。自分で考えるという内向きに思える活動は、しかし誰かと言葉を交わすことでしか進まない、極めてオープンな活動であるということ。
諦めないで、閉じこもらないで、進まずとも水の中にただ私として在るために、言葉を交わしていきたいなと思う。目の前の問いは、問うていいのだ。
最近私が勤しむ自問自答ファッションは、まさにこの言葉を実践しているなと感じる。ファッションで示したい自分について思考を深め、仲間と語らうことで気づきを得てまたもぐる。読む人を想定したSNSへのアウトプットも、ある種の対話だろう。
終わりに、著書にサインをいただいた。「最近の悩みは?」と聞かれて、答えた悩みに沿った問いを書いてくれた。
それよりなにより、ブラックコーデもあって夏の風に鳴る鉄風鈴のような印象の方が「問いプードル」を描いてくれる事態に感動して、感想も何も伝えられなかったポンコツの私。
本当にかわいい。問うぞ!
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